LOGIN五月中旬。青々とした新緑が輝く丘陵地帯では、羊たちがのんびりと牧草を食んでいた。
昼下がりの空は快晴で、雲ひとつない蒼天が頭上に広がっている。 そんなその正体は、空を駆けるバイク──飛行二輪だった。
陽光に鈍く光る黒鉄色の大型車。唇には機嫌の良さを隠しきれない笑みが浮かんでいる。
(──やっとの休暇! 今日は絶対に、良い日になるわ!) ゴーグルの下、金色に近い琥珀の瞳を爛々と輝かせながら、彼女──ネクター・エヴァレットは、最近ラジオでよく流れている流行歌を、鼻歌まじりに口ずさんだ。──十七歳の少女、ネクター・エヴァレットを一言で言い表すなら、〝異端者〟だろう。
金色の瞳に、赤みを帯びた髪──それはまさに、古くから伝わる〝魔女〟の姿そのもの。
しかも、魔女といえば物語の中で空飛ぶ箒に乗るのがお約束だが、彼女の場合は飛行二輪に跨がって空を駆けるのだから、さしずめ〝現代の魔女〟といったところか。とはいえ、すでにこの国──イフェメラ王国では、貴族制は数十年前に廃止され、蒸気機関の発展により産業が飛躍的に成長している。魔女狩りや異端審問といった時代も、今や数百年も前の話。忘れられて当然の過去となっていた。
……そんな時代に生まれて、殺されずに済んでよかった。生まれた時代が良かった。
ネクター自身、何度そう思ったことか。だが、彼女が〝異端者〟と呼ばれる理由は、容姿だけにとどまらない。 むしろ、その〝職業〟こそが最大の理由だった。産業革命の始まりから二百年程が過ぎたとはいえ、女性が職業に就くのはまだまだ珍しい時代。商人や農婦、或いは娼婦などがその例外に挙げられる程度だ。
同じ年頃の乙女といえば、上流階級の娘なら教養を身につけるため学生生活を送りながら縁談を待ち、庶民の娘なら家の手伝いをしながらやはり縁談を待つ──そんな未来が〝当然〟とされていた。家事をこなし、子を産み、家庭を守る。
それがこの時代における女性の〝仕事〟だ。そんなネクターの暮らしは、王都ブラスシザーズのすぐ隣──昼夜を問わず貨物列車が走り抜ける埃っぽい工業地帯、アッシュダストにある。
五十を過ぎた未婚の叔母、ドリス・エヴァレットとともに、こぢんまりとした修理工房を切り盛りしていた。職業は、修理技師。
とはいえ、正式な弟子というよりは、十五の頃に反抗期の勢いで叔母の元へ転がり込み、気付けば工房の手伝いをしていた……というのが実情だった。そんな日々の中で、ネクターは自然と機械いじりの腕を磨いていった。
それは仕事であると同時に、彼女にとってかけがえのない趣味でもあった。機械油の匂いに包まれながら、バイクや時計を分解してはまた組み直す。そしてひと息つくと、亡き祖父が遺した冒険手帳を開いて、まだ見ぬ世界に想いを馳せる──それこそが、ネクターにとって至福の時間だった。
祖父は技術者であると同時に冒険者でもあり、彼の語る物語はいつも鮮やかで自由だった。
そんな血を引いたネクターの趣味は、世間から見れば少し風変わりだったかもしれない。もちろん、可愛いものが嫌いなわけではない。
今だって、召している作業着もフリルのたっぷり付いた生成り色のブラウス、焦げ茶色のスカートには幾重にも重ねられたクリーム色のレース──と、機能性重視の実用的な服装の中にも、少女らしい可憐さをしっかり忘れていない。けれど、それはあくまで、〝今〟のネクターの姿。
──生まれ育った場所と、本当の名前においては、ネクター自身は語りたがらないだけ。 その出生は、イフェメラ王国の誰もが耳にしたことのある、あの家の名に繋がっているのだった。足音が近づき、レックスがネクターの作業部屋の前を通りかかった。母はその瞬間、すかさず彼を呼び止める。「お、何だ。ネクターの母ちゃん?」 そう言って、レックスは気軽に答えるが、その声は二年前より低く、容姿も見違える程に変わった。 かつてはネクターとほとんど変わらない背丈だったのに、今では頭一つ分も高く、スコットとそう変わらない。 工房での力仕事に加え、スコットの紹介でヒューズ社の部品工場でも時々顔を出して働くようになった。そのおかげもあって、華奢だった少年の体には筋肉がつき、随分と逞しくなっていた。 その顔立ちも、少年らしいあどけなさが消え、精悍な青年のそれに変わっていた。少し悪い顔をすれば、余計に悪人顔になったようには思うが……。 そう、あの手術以降……レックスは正しい時を取り戻し、成長を始めた。 あれから二年。彼は十八歳になった。 「……で、何か用か? ネクターも仕事が忙しそうだし、用件は早めに言ってやれな?」 軽く肩を竦めて言ったその一言に、ネクターは心の中でガッツポーズをした。 そうだ、よく言った。もっと言ってやれ。 一方の母は、そんな青年をじっと見上げ、少女のように口元を緩める。 「ねぇ、そういえばレックス君。貴方、ネクターと交際してるのよね? もう二年だっけ?」 「ああ、うん。そうだけど」 今更それが何か……とでも言いたげに、彼は小首を傾げた。 「率直に聞くけど、レックス君はネクターを完全に自分の傍に置いておきたいとか、そろそろネクターの赤ちゃんが欲しいって思わない?」 母のあまりにも直球な言葉に、レックスはこれでもかという程に目を丸くし、ネクターは顔を真っ赤にした。「ちょっ……お、お母様!? 昼間から何を言うの!」 慌てふためくネクターの声が部屋に響く。だがレックスは、不意を突かれた動揺をすぐに飲み込み、頬をかきながら穏やかに答えた。「一応、軍の精密検査の結
あの日々から、二度目の夏が訪れていた。 ネクターは十九歳になり、少女から大人の女性へと歩みを進めつつあった。とはいえ、〝異端の女職人〟は変わらずだった。 結局、レックスの手術が終わった翌年の春に、二人は叔母の工房へと戻ってきたのである。 理由は単純だった。叔母ひとりで工房を切り盛りするには、やはり限界があったのだ。「作業の手が早いネクターと、雑務を何でもこなすレックスがいないと店が回らないのよ!」 ──だから返せ。そう言って、叔母は母に向かってどやしつけたらしい。 戻ってきてからの日常は、驚くほど以前と変わらなかった。 毎日修理に追われ、毎日納品に走る。最近は個人客だけでなく、企業からの依頼も増えており、ますます忙しくなっていた。 だが持ち込まれる品の多くは、雑に扱われて壊れたものばかりだった。 ここ数年で、生活に便利な家電も増えてきた。一般家庭にもそれらは少しずつ普及し始めているが、どうやら「機器の不具合は叩けば直る」という迷信がどこからか広まってしまったらしい。 結果、余計に状態を悪化させた機械が持ち込まれることが後を絶たなかった。「──ッ! そんなわけないじゃない! もっと機械を大事に扱えないのかしら!」 文句をこぼしながらも、ネクターは結局手を動かすしかない。 その様子を見て、レックスは「ドリスに似てきたな」などとからかって笑うのだった。 愛すべき仕事であることに変わりはない。精密機械に没頭できる日々は、ネクターにとっては何より幸せだった。困ることなど──仕事に関しては、何ひとつなかった。 ただし、困りごとは別のところにあった。「ねぇ~ネクター? 貴女、もう来年には二十歳よね? そろそろうちを継ぐ気はなぁい?」 間近から響く母の甘ったるい声に、ネクターは顔を引き攣らせて鼻を鳴らした。「ないわ。というか、ブラックバーン社の社長様が毎週こんな所で油を売っていて良いのかしら? 私、仕事が忙しいの」 いいから帰った帰った。そう言って半眼を向ければ、母は頬をぷうっと膨らませ、「
反射的に振り向きそうになった。 だが、その瞬間、鋭く低い声が背後から響く。「……絶対に振り返るな」 重みを帯びた言葉は鋭く心臓を突き刺し、レックスは息を呑んだ。 聞き覚えのある声だった。否、五百年という途方もない時を経た今も、決して聞き間違えるはずがない。 ──アプフェル。ミッテ。 どうして彼女たちの声がここに響くのか。 ファオルは言っていた。同じ魂を持っていても、かつての記憶は残らないはずだと。ならば、いま耳にした声は幻聴か、それとも最後の奇跡なのか。 考えるより早く、視界はじわりと霞み、眦が焼けつくように熱を帯びる。 涙を堪えることなど、もうできなかった。「……フェリクス。ありがとう」 震えを含んだアプフェルの声が告げるのは、ただの感謝。 わざわざ、それを伝えるためだけに来たのか。あまりに酷い。会いたくて仕方がなかったのに、振り向くことは許されないのだから。 それでも──。 あのときの自分は、ただ仕える者として当然のことをしただけだ。 返す言葉も見つからず、レックスは黙って小さく頷いた。「聖者……いいえ、生者として生きなさい。必ず、必ず……幸せになると約束しなさい」 それは主人からの、最後の命令。 アプフェルがそう言い添えた直後、背中越しに暖かな気配が二つ重なった。 振り向いてはならない。 それでも、視界の端に映った影は、確かに茜色と黄金。アプフェルとミッテの面影が、涙に霞んで揺れていた。 頬を伝う雫の熱が煩わしくて、レックスは慌てて腕で拭った。 それでも涙は止まらない。「生きるに決まってんだろ! ……ミッテ、ボクに言ったじゃないか。生への執着を忘れるなって。たとえ一片でも希望になるからって……! 一度は投げ出そうとしたけど……でも、ボクはあの約束を守れただろ!」 嗚咽に押されるように声が迸った瞬間、荒々しくも優しい手が頭に触れた。 乱雑に髪を撫でる感触。大きく、温かな手。 ──あの頃もそうだった
その少女を思い出せない。 それが酷く悔しく、なんだか悲しくさえ思えて、フェリクス──いや、レックスは奥歯を強く噛みしめた。 胸の奥にぽっかりと穴が開いたようで、そこから大切な何かが抜け落ちていく感覚。喉の奥にせり上がる焦燥を必死に押しとどめようとしたその時、肩にとまる小さな影が小さくため息をついた。「……しょうがないなぁ、ヒントあげるよ」 羽ばたきとともに響いたファオルの声は、いつも通り飄々としていながらも、どこ か温かさを含んでいた。「〝歯車の魔女〟だ」 その言葉が告げられた瞬間、頭の中で何かが弾けた。 忘却の靄が一気に吹き飛ばされ、押し流すように記憶が雪崩れ込んでくる。 ────五百年前。 冷たい手術台に上げられ、目を覚ましたときに告げられた忌まわしい呼び名。〝生物兵器アビス〟。 使い物にならないと封印され、五百年の眠りについたこと。 やがて目覚めた自分を呼び起こした、桃金の髪をした聡明な少女との出会い。 無理やり結んだ契約。彼女を守るために権能を使った。 ──彼女は、なんと呼んでくれただろうか。『貴方のこと、レックスと呼んでもいい?』 柔らかく澄んだ声。アプフェルによく似た愛らしさを持ちながらも、より落ち着き、凛とした響きがあった。 その瞬間、彼の胸を突き破るように確信が走る。「……ネクター!」 叫び声とともに我に返ると、肩の上で羽を震わせるファオルが「おかえり」と穏やかに呟く。 レックスは震える指先を見つめながら、きょろきょろと辺りを見回した。どうして自分はこんな場所にいるのか──。だが、すぐに思い当たる。 以前ファオルが言った言葉。 「聖痕を持つ者の魂は〝還る場所〟を持つ」と。 ならば、ここはそういうことなのだ。「ちょ、ちょっと待て! 全部……色々思い出したんだが!」 取り乱す声に、ファオルは心底うんざりしたように返す。「何さ」 「これってつまり……ボク、死んだのか?」
あの後、レックスはネクターの生家で過ごすこととなった。 北南部の都市スチールギムレットにあるブラックバーン邸。そこは、レックスが王族や大貴族の屋敷で見慣れた荘厳さに決して劣らぬほどの立派な邸宅だった。 前々からネクターやドリスの所作に育ちの良さが垣間見えていたものの、いざ屋敷を目の当たりにしてしまうと──あぁ、やはり彼女たちは特別なのだと、心底納得させられる。 高い天井には煌びやかなシャンデリアが吊るされ、幾重にも飾られたタペストリーには長き家系の歴史が刻まれている。重厚な階段を昇り降りするだけで、己が異邦人であることを痛感させられる場所だった。 そうして二ヶ月、三ヶ月と時が過ぎた。 日没が早まり、街に粉雪が舞い始めた頃──イフェメラ軍からレックス宛に一通の手紙が届いた。 内容をネクターに読んでもらったところ、脊髄に植え込まれた装置を取り外す準備が整ったという知らせだった。もしも手術の後も生存できれば、イフェメラ軍の保護と保証を受け、正式な国籍までも与えられるという。 だが、五百年も時を止められていた身だ。 いくら現代技術が飛躍的に発展していようとも、生存の可能性などどれほどのものか。言葉を尽くされてもなお、簡単には信じられなかった。 しかも、あの一件があったばかりだ。 あの日のように、甘言に誘われては新たな改造を施されるのではないか──そんな不安が頭を離れなかった。 だが、ネクターの母は静かに微笑み、彼の懸念を宥めるように言った。 「その心配は要らないわ。……今の軍に、そんな余裕は無いもの」 理由を聞けば、あの日の騒動に遡る。 ゴードン大佐が一般民に武力を向けたことは瞬く間に広まり、国の有権者たちが大騒ぎしたそうだ。その結果、イフェメラ軍は徹底した立て直しを迫られている最中であり、旧態依然としたやり方は決して許されぬ、と。そんな状況下にあるらしい。 「だから大丈夫よ」と言われて、レックスはようやく胸の奥から安堵を覚えた。 だが──問題は別にある。 生き残れるか否か。それこそが最大の壁だった。 最悪の結果
連絡通路を渡り、ブラックバーン社の飛行船に身を移した瞬間だった。 扉が閉まるや否や、張り詰めていた糸がぷつりと切れたかのように、母はその場でへなへなと腰を落とし、床にしゃがみ込んでしまった。「お、お母様!?」 慌ててネクターも身を屈め、母の顔を覗き込む。 だが返ってきたのは、力なく崩れるような仕草ではなく、次の瞬間に娘を強く抱き寄せる温もりだった。 目を丸くしたネクターの耳元で、母は涙声を震わせる。「ああ……ああもう! 本当に怖かったのよ! 貴女が交渉に行って時間を稼ぐって、ドリスに急かされて、必死でここまで来たけれど……。なのに、無線で聞いたのよ。貴女があの豚に突き落とされて、海に落ちたって……!」 言葉を捲し立てる母の瞳には、今にも零れそうな涙が大粒に溜まっていた。 強い人だと思っていた。自分を突き放した冷たい母だと信じ込んでいた。──けれど今、必死に抱き締めて泣く姿は、ただの母親そのものだった。「もぅ……どうしてそんなに危ない橋ばかり渡りたがるの、この子は! 心配で……心配で……!」 そう叫んだ後、息を吸うようにぽつりと、「やっぱり魔女ね!」と憎まれ口を添える。だが、その口ぶりすらも泣き笑いに揺れ、くしゃくしゃになった顔でネクターの額や頬に幾度も口付けを落とした。 ──叔母から「切り札がある」と聞いてはいたが、まさかそれが母自身だったとは思いもしなかった。 確かに、この状況を覆せるのは母しかいなかったのかもしれない。 けれど同時に、危険を呼び寄せる立場に母を巻き込んでしまったことが、今になって骨身に沁みて恐ろしくなる。 自分は、これまで母の手紙を一度として開かず、返事さえ寄越さなかった。 嫌われ、捨てられたのだと思い込んでいた。──だが、こうして駆けつけてくれた。助けてくれた。 込み上げる思いに、ネクターは深く頭を垂れ、感謝と謝罪を口にした。 母は、少し赤い目を瞬かせ、肩で息をしながらも毅然とした声音を取り戻していた。「まったく……。可愛らしさの欠片もない反抗期の娘だって、